その147 ”南京大虐殺”について

 わたしたちは「剣道は歴史と伝統を誇る日本古来の伝統文化」との高唱のもと修錬を続けております。しかしその内実は、戦後から連なり、わが国を貶める流言飛語にさらされながら、心の底で自国の〝歴史〟に自信を持てないまま、遠吠えのごとく〝伝統〟を唱えてきたように思います。

 いわゆる「自虐史観」に苛まれながら。

 たとえば近隣国から〝南京大虐殺〟とか〝従軍慰安婦強制連行〟など、恫喝を受ければたちまち青菜に塩のごとくになってしまうように…

 

 これは剣道を修業する者として少なからず心的障害となっております。これらは80年以上前のことなので、戦後生まれのわたしが知るよしもありませんが、さまざまな書物を見比べながら、この剣談の場をお借りして皆様方にご紹介したいと思います。

 

 まず「南京大虐殺」ですが、これを『広辞苑』(第六版)で調べますと、

 

≪日中戦争で南京が占領された1937年(昭和12)12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。≫

 

となっています。

 

 おそらくふつうの日本人は、おぼろげながらこの程度の知識でもって、わが国の負の歴史として頭脳の一角を占めていることでしょう。

 

 ちなみに『ウィキペディア(Wikipedia)』で検索すると、「南京大虐殺」ではヒットせず「南京事件」が出てまいりました。

 

≪日中戦争中の1937年(昭和12年)12月上旬、日本軍が中華民国の首都南京市を攻略した。この南京攻略の前後に日本軍によって行われた一連の虐殺、および略奪・暴行・強姦・放火などの不法行為を総称して南京事件という。≫

 

と要約されていました。

 次に、南京事件を取り上げた書籍を何冊かご紹介いたします。

 

 『昭和史1926~1945』(2019年2月12日・著者:半藤一利・平凡社ライブラリー)「南京虐殺はあったが…」では、

 

≪一番公平な記録としては、1989年(平成元年)に旧日本陸軍の集まりである偕行社が『南京戦史』を出版し、そのなかで旧陸軍にとって不利になりかねない記録や手記も隠さず、中国側の公式記録『南京衛戍軍戦闘詳報』なども加えて、丁寧に書き連ねて、次のような結論を出した。

 「通常の戦闘による中国軍将兵の戦死者(戦傷病死を含む)約3万人」これは戦闘行為によるので問題にならない。

 「中国軍将兵の生存者(渡江、釈放、収容、逃亡)約3万人」これもオミットできる。

 「中国軍捕虜・*便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6千人。一般市民の死者約15,760人」「撃滅、処断」とは、敗残兵に対する攻撃、市民にまぎれこんだ中国兵の掃討、さらには捕虜暴動の鎮圧などを指し、この部分が虐殺といわれる数である。3万人強がその数といえよう。

 とにかく軍にはちゃんと法務官がいる、裁判もせずに捕虜を大量に処刑したのはいけないこと。南京で日本軍による大量の虐殺と各種非行事件の起きたことは動かせない事実である。

 ただ中国が言うように30万人というのは、東京裁判でも言われたが、あり得ない話。当時、南京の市民は疎開していて30万人もいなかった、軍隊もそんなにいなかった。≫

 

*便衣兵:一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人。

 

として虐殺はあった、としつつも各国間で戦われる、通例の戦争行為の範囲内としています。

 

 「子供たちに伝えたい『日本の戦争』あのときなぜ戦ったのか」(平成26年8月12日第3刷発行・著者:皿木喜久・発売:日本工業新聞社)には「虐殺の数には大きな差、意図的に誇大宣伝か」で、

 

≪しかしその数については現在でも中国当局や日本の研究者らの間で大きな差がある。特に便衣兵ら戦闘員以外の一般市民の被害については、信用できる証言は少なく、日本側では「ほぼゼロに近い」と否定的見解が多い。

 さらに『戦争とは何か』という本で「大虐殺」を報じた英国のジャーナリスト、ハロルド・ティンパーリーについては、中国共産党の中央宣伝部との繋がりも指摘され、中国側により意図的に誇大に宣伝されたと言っていい。

 ザ・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめた英国人のヘンリー・ストークス氏は、近著『連合国戦勝史観の虚妄』で、史料を調べなおしたうえで「大虐殺」を「情報戦争における謀略宣伝だった」と断じる。南京の欧米人は中国国民党の中央宣伝部に取り込まれていたとみている。≫

 

 また、『年表で読む[明解!]日本近現代史』(2004年6月30日・著者:渡部昇一・発行所:海竜社)では「慎重を極めた南京攻略」においては、

 

≪この南京攻略に関して、いまだにまことしやかに伝えられている「南京大虐殺」なる事件は、東京裁判で連合軍が捏造したものである。

 さて、盧溝橋事件以来、シナ事変は次第に拡大しつつあったが、日本政府としては、適当なところで収束させたいというのが本音だった。しかし蒋介石の執念たるやすさまじいものがあり、ついに第二次上海事変が起きた。ここで日本政府は、ついに南京攻略という強硬手段に出ることを決断する。首都をおさえれば、さすがの蒋介石も講和に応じるだろうと考えたのだ。

 日本軍は12月1日に南京攻略を命令した13日後にはあっさり決着がつくが、日本はこれまで以上に慎重を期して、この南京攻略に臨んだ。

 というのも、満州事変以来、日中の戦争に対する国際社会の関心が最高潮に達していたからだ。第二次上海事変の被害者には欧米人も多く含まれていたから、なおさらである。

 また、南京には多くの外国人ジャーナリストがおり、もしわずかでも日本の落ち度が報じられることになれば、国際社会での日本の立場はさらに悪くなる。

 このような危惧から、南京城を包囲した日本軍は、まず籠城している国民政府軍にオープン・シティ勧告を出した。それが拒否されたため、攻め込んだのである。

 また、日本軍の松井石根将軍は、全軍に軍規の徹底を呼びかけた。日本軍が外国の首都に入城する最初の例だから、後世の模範になるようにとの配慮からだ。≫

 

と記しています。

 もう一冊、ご紹介したい本がありますが、文字数が多すぎるので次に回します。

 既に書き上げ、というか〝写し(抜粋)済み〟なので、早々に掲載されるようにいたします。

つづく

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